私は不審者

私はいつものように自宅最寄りのバス停で降車し、翌日に控えている某ウイルスの予防接種について考えながら帰路についていた。夕方の5時頃だったであろうか、辺りはまだ明るく、安穏とした空気が漂う何変わりない帰路であった。住宅街で人とすれ違うことは多くないのだが、一人の女の子(中学生くらいであろうか)が私の前を歩いていた。前に人が歩いているというのは取り留めのないことであり特に私も気にしていなかったが、その女の子が時折振り返り私を見ている気がしたので、多少の違和感を抱いていた。すると、突然その女の子は走り出したのだ。それはもう私が不審者であり危険人物であるといわんばかりの速さである。獲物を逃がした釣り人の如く呆然としていた。無論、私はその女の子と面識などはないと思われるし、バス降車時から何かしらのアプローチをしたわけではないのだから、謂れのない罪に問われた気がして弁明をしたい気持ちに駆られた。潔白の身でありながら不審者扱いされて良い気になる人はいないだろう。冤罪を吹っ掛けられる哀れな人間の気持ちを一寸程は理解できただろうか、しかし追いかけて「不審者ではないよ」などと言おうものならば、たちまち本物の不審者である。動揺の素振りを一切見せず私はまた歩き始めた。ふと同じような記憶が頭の片隅にちらついた。

母親は私が小さいころから心配性で、留守番時には絶対にドアを開けないように言われていたし、家に帰る時も必ず友達と帰るように言われていた。子供関連の凄惨なニュースが流れると、恐ろしい口調で煩わしいほどに外では背後に気を付けるように口酸っぱく言われていた。しかし実情は何も起こらなかった。恐らく私の住んでいる街は、治安はいくら良くても良すぎるということはないのだが、度が過ぎるほどに治安が良かった。警戒心も薄れていたある夜、塾帰りであったように記憶している。辺りも暗く、その時は友達とは別々に帰っていたので、一人で帰路についていた。ふと、背後から足音が聞こえた。後ろから近づいてくる足音というのはいつ聞いても不気味である。心なしか視線を感じるのでついつい後ろを振り返るのだが、少しでも恐怖を感じてしまったが最後、その人物の顔など恐ろしくてのぞけない。目線が合うのをきっかけに何かが起こってしまいかねない。恐怖というのはそれほどにも思考を短絡化させ、焦らせる。意識すればするほどその狡猾な足音は速度をあげている、ような気がする。自宅まではあと100メートルもないだろう、私は一か八かに賭けて、自宅まで走った。後ろを振り返る暇など一切ない。それはもう全力である。尿意を催している時と良い勝負である。玄関にたどり着き、母親の顔を見るやいなや安堵し、ついでに便所にいき用を足した。

警戒されるのは大人の証である。児童犯罪を防げるならば寛大な心で不審者だと警戒されようではないか。ちょっと悲しくなるけどね。