吃音の記号化

昨今では吃音当事者の自助団体の地道な啓発活動の成果とインターネットの普及も相まって、社会一般にも吃音の知名度は上がってきたように感じる。ニュースで吃音の特集が組まれたり、様々な吃音をテーマにした作品や吃音を持つ人物が登場するなど吃音が社会に露出する機会も増えてきた。実際に私の周囲でも私自身の吃音をカミングアウトしていないコミュニティで自然に吃音の話題になったこともある。学生時代に独りで周囲との違和に苦しみ理解されない沼に溺れていた私にとっては吃音そのものが社会一般に発見されつつあるだけで何だか救われるような気すらしてしまう。同じ気持ちの当事者の方々も多いことだろうと思う。

しかし、数年前から吃音の知名度の上昇と比例して思わず眉間に皺を寄せてしまう投稿を見かけることが増えてきた。吃音をネタにしたものや小馬鹿にする内容の投稿である。そういった低俗な投稿にいちいち目くじらを立てるのも際限がないし、どんな障害でも侮蔑的な扱いを受けることがあるのは承知の上である。しかし、黒人差別、朝鮮人差別、性差別、知的障害、身体障害、ADHD等のように、差別や障害があまりに一般化され過ぎるとネタにされ侮蔑されることは仕方ないという風潮が生まれ、差別対象としてネットミーム化する。上記のように記号化されて”ネタ扱い”されてしまう対象には共通点がある。それは実態を知る前にその対象を差別してはいけないというお触れのみが先行してしまう点である。我々は上記のような対象の実態を理解して触れる前に、差別意識を持ってはいけないという英才教育を義務教育で受けることとなる。そうしたお触れが先行してしまうと、対象が差別禁止の単純な性質のものとして記号化され軽視される。つまり、対象元来の性質が差別されるようなものであるから差別してはいけないと教えられるのだと錯覚する。その結果が現在のインターネットに蔓延る上記の対象を侮蔑するような内容の投稿の乱立を許している。浅く理解されるよりは得体のしれないものとされた方が対応が慎重になり都合のいいこともある。一度差別対象として記号化された場合それを覆すことは容易ではない。そして、こうした単純な記号化は吃音にも起こってきている。

一例として、都立高校は2023年の入試から吃音を理由に英語のスピーキングテストの免除の申請が可能になったことがあげられる。入試の面接等に不安を覚えながら挑んだり、英語の資格試験で不利益を被った経験がある私からすれば一個人として救われるような対応である。しかしこれが対吃音に対する配慮として合理的なのかと問われると首をかしげざるを得ない。不受験を可能にするというのは一種の諦めであり寄り添いに見えて切り離しである。そもそも中学生にして吃音の診断を受けている当事者も少なく、吃音と健常者の曖昧な線引きの中で明確な免除を受けることによって新たな差別につながる可能性も無視できない。これは吃音が言葉が出にくい障害という単純な記号化がもたらした制度であるとも言える。そして件の内容に関しては、あくまで吃音は言葉が出づらいという症状であり、話す内容が浮かばないわけではない。そうであるならば不受験の選択肢を与えるのではなく不自然な間やいいごもりを減点対象から外し内容の評価の比重を上げたり、吃音によって言葉が出ない場合に挙手等の合図で制限時間の経過をとめるといった対応が合理的ではないだろうか。

勿論自助団体の地道な啓発運動がこういった制度的な支援を始めとして社会に影響を与えだしていることは確実に大きな進歩であり希望である。ただ「話すことが苦手」「馬鹿にしないでほしい」という内容のみ浅く広範に知られることは、レッテル貼りと差別対象としての記号化を促す可能性があり必ずしも実態の理解と合理的な配慮を受けるにあたって良い影響に寄与するとは限らない。実際吃音は言葉のブロック症状だけでなく予期不安のような社交不安障害に近い症状と不可分であり、話す場面の排除のみの対処が適切とは言えない。

つらつらと偉そうな物言いで書き連ねた割に具体的な対案を出せずにいるが、吃音を広範に知ってもらおうという大きな潮流に盲目的に邁進せず一考する余裕を持ってもいいのではないかと考える。