兵どもが夢の跡

私は漠然と”歴史”というものに惹かれていた。具体的に何に惹かれているのか自分でも見当がつかないため、その何かを求めて受験生だった頃は日本史に最も勉強時間を割いた。しかし、多少の面白さは感じるものの自分が今まで惹かれていた何かを具体的に表現することはできなかった。それどころか日本史の専門書を読めば難解な言葉遣いに頭がくらくらしてしまう。自分では日本史が好きなのだと思い込んでいたがそれは思い過ごしだったのだろう。そんなことを考えたりもしたが、やはり歴史への漠然としたロマンは尽きることはなかった。

私はくたびれた廃墟にも同様のロマンを感じた。某動画サイトには以前旅館やホテル、学校として使われていた建物を探索する動画が多く投稿されている。動画の中では当時使われていた家具や机などがそのまま放置され、もの寂しい雰囲気を醸し出していた。その空間に人が活動していた時の温かみの面影を残しながら、息を潜めまた人に使われるのを待っているようにも思える。私は、一度人に使われた空間や物には魂が宿り、人を欲しているように思えてならない。こうした物、空間の存在が人間に訴えかけてくる瞬間が愛おしくて堪らない。私が漠然と抱えていてロマンの正体はまさしくこれなのではないだろうか。廃墟探索の動画を視聴し、そう強く思うようになった。

思い返せば小学生の頃から私にはそういったきらいがあった。休み時間になると、時間がどれほど短かろうが少年たちは校庭に駆け出していく。皆が一つのサッカーボールを追いかけ、守り、蹴り飛ばす。一躍スーパースターの如く脚光を浴びるサッカーボールの地位も十数分で役目を終える。休み時間終了の合図のチャイムが鳴るやいなや、スーパースターは厄介者に変り果て、片付けの押し付け合いとなる。運動神経が悪くノロマな私は、厄介者を保護することになる。所定の場所である倉庫に向かう途中、私の腕に抱えられたサッカーボールには独特な哀愁があり、私はむしろスーパースターより厄介者のサッカーボールに愛着が湧いていた。

「夏草や兵どもが夢の跡」、これは皆さんご存じの松尾芭蕉がかつて藤原氏が栄華を極めた平泉にて青々と茂る夏草を前に詠んだ俳句である。松尾芭蕉は目の前に茂る夏草に、跡形もなく消え去った武士の呼吸を感じ取ったのではないだろうか。